首都プノンペン

ひろしまハウス

観光地シェムリアップ

クメール王朝の遺跡・アンコール遺跡群

エイズを持ち帰ることなかれ(ナイトライフ)

土と水とバイク(カンボジア・貧困・戦争)

子ども達

良くわかるポルポト(カンボジアの1970〜2000)

 


TOP PAGE へ

首都プノンペン

 


王宮前のメコン川とトンレサップ川の合流点近く

 

プノンペン概略

オルセーマーケット

ツールスレーン戦争博物館

ひろしまハウス

 

ちなみにカンボジア王国の人口などについてはここが詳しい。

 

プノンペン概略

プノンペン空港。飛行機から降りるときは階段を下りる形式で、着いたという実感を非常に感じるものだった。入国審査は非常に簡単で、すぐに出口へ。出口は非常に多くの人がいた。プノンペンはペン婦人の小高い丘と言う意味らしい。通貨はリエル。1ドル3800リエル。プノンペンには100万人が住んでいる。

 

このページのトップへ

 

オルセーマーケット

食料品がたくさんある市場で、他にも時計屋、宝石屋、両替、日用雑貨屋などトタン屋根の下にたくさんの店があった。時計屋でC-shockが8ドルで売っていた。CASIOのG-shockではなく、C-shock。市場では豚の半身がリヤカーに乗せられてどっさりと運び込まれ、それをひとつずつ肩に担いで運ぶ人がいた。肉はなたのようなモノでどさどさと、切られていた。さばき方はさすがに上手に見えた。市場の中にある喫茶店のような所で、コーヒーをいただく。氷は危ない(生水は腹をこわす)のでホットのコーヒーをいただいた。おおざっぱなネルドリップ。しかもコップの3分の1は練乳が入ってる。練乳入りのコーヒーは普通にみんなは飲んでいるらしく、コーヒーを飲んで練乳を余らせて、その上のお茶を注ぐとおいしいミルクティーになる。そのほか、マーケットではカンボジアの普通の朝食であるクィティウをいただいた。クィティウは米の麺で肉が入っており、モヤシを乗せて食す。肉は別小皿の辛いたれに付けて食べる。辛いたれは麺の中に入れてもいい。クィティウ2000リエル。60円ぐらい。

 

このページのトップへ

 

ツールスレーン戦争博物館

「ポルポトは1975〜1979年1月まで制圧していた。200〜300万人が殺された。ポルポトはの幹部も殺された。ポルポトは軍人、知識人が大嫌いだった。1万人のうち、残ったのは5人といわれている。その5人の中に絵描きがいて、ツールスレーンの壁にはその人が描いた絵がある。ツールスレーンに連れてこられた人は、1日2食お粥だけで、監禁、拷問を6ヶ月受け、その後処刑された。カンボジア人は共産主義が大嫌い。自分は79年7月にバッタンバンから歩いてプノンペンへ帰ってきた。78年にはマラリアと飢餓で家族11人のうち10人が死んで、残ったのは自分一人だけだった。」とはガイドさんの言葉。

ツールスレーンは元々中、高等学校であったが、ポルポト時代には学校も寺もなくし、ツールスレーンは拷問場になっていた。

ツールスレーンはA〜Dの4棟からなり、Aはえらい人のための独房(20部屋)だった。ベトナムが攻めてきたときにA棟で14体の死体を発見し、その時の写真が10畳ほどの部屋にベッドがひとつおいてある一つひとつの部屋にかけてあった。ベトナム軍は14体の遺体のためにA棟の前に墓をつくっていた。B〜Dは集団房。

処刑はツールスレーンで行われるのではなく、10km程度離れたキリングフィールドで行われる。ツールスレーンには、入房の際に撮った写真もかけてあるが、処刑後の写真もかけてあった。ちゃんと殺しました、という証明、報告のためであろうか。非常に心苦しい写真達であった。

ガイドさんの説明は続く。

「1975年、クメールルージュの少年達が、「アメリカが爆弾を持って来た・・・とにかく3日間、逃げろ!!」と言ってまわり、強制的にプノンペンから逃げた。その後結局3年間、戻ることは出来なかった。寺院などは外側を残して中を滅茶苦茶にした。外国にいる人たちには残った外側を見せ、安心させるためであり、外国にいたカンボジア人はポルポトのやっていることがわからずにいた。」

ガイドさんの話は実体験に基づいた話で、涙ながらに語られると説得力がある。実際にツールスレーンを訪れてみて、「なぜなんだ。どうしてなんだ。」という疑問しか出てこない。ポルポトを勉強しなければ、という気持ちになった。かなりの衝撃を受けた場所だった。

ポルポトについて書いたページへ 

 

このページのトップへ