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1954年:カンボジア王国のフランスからの独立が国際的に承認された。
1970年:シアヌーク国家元首がロンノル首相によって解任され、国名はクメール共和国と改められた。解任されたシハヌク殿下は北京でクメールルージュと手を組み、統一戦線を結成し、カンボジアの北部を中心にアメリカ及びロン・ノル政府軍に対してゲリラ戦を展開した。
1975年4月:ベトナム戦争終結(アメリカのベトナム撤退)と同時にロン・ノル政権が崩壊。クメールルージュが政権を取り、国家元首にシハヌク殿下が就任。
1976年1月:国名を民主カンプチアに改め、ポルポトが首相に就任。
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以来3年間、ポル・ポトは首都プノンペンの無人化を図るとともに、政敵や知識人を徹底的に虐殺した。その数は100万人〜300万人といわれている。
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1978年末:ベトナム軍がカンボジアを侵攻し、ポル・ポト政権を倒し、親越(親ベトナム)のヘンサムリン、チアシム、フン・センらがプノンペン政権を樹立した。
1979年1月:カンボジア人民共和国の成立を宣言。
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兄弟の結束を誇ったベトナムと中国・カンボジアの共産党政権は、ベトナム戦争後、敵味方に分かれた。インドシナ共産主義運動の総本山を自負するベトナムがソ連と結ぶと、中国はモスクワ=ハノイ勢力がカンボジアを脅すことを恐れ、反ベトナム姿勢を強めるポル・ポト派を徹底的に支援した。ソ連とベトナムの影響力拡大を懸念した日本を含む西側諸国やASEAN(東南アジア諸国連合)もポル・ポト=シアヌーク連合の反ベトナム支持に回っこともあり、国連もカンボジア議席は89年総会までポルポト政権が占め続けた。
カンボジア紛争が十三年間の長きにわたったのは、中国と西側のポル・ポト派支援があったため。
また、その間に両勢力によりたくさんの地雷が埋設され、カンボジアは世界一の地雷埋設国となってしまった。
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1989年:ベトナム軍がカンボジアからの撤退を完了。
1991年10月:和平協定が締結。
1993年4月8日:カンボジア中部で、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の選挙監視員として派遣された中田厚仁さん(当時25歳)の乗った国連の小型トラックが、襲撃を受けた。中田さんと、同乗のカンボジア人通訳が銃で撃たれて死亡した。実行犯はポル・ポト派の武装ゲリラとみられている。
1993年5月4日:カンボジア北西部で日本人文民警察官を含むUNTACの車列がポル・ポト派とみられる武装ゲリラ集団に襲撃された。約十人の武装ゲリラが自動小銃で乱射。文民警察官として派遣された岡山県警の高田晴行警視(当時33歳)が胸や腹を撃たれて死亡し、ほかに四人の日本人文民警察官が重軽傷を負った。
1993年9月:総選挙・・・和平協定に基づいて国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)が実施した制憲議会選挙の結果を受けて、新憲法の採択、シアヌーク国王の即位、フンシンペック党(王党派)のラナリット第1首相、人民党(もとヘン・サムリン政権政党)のフン・セン第2首相の任命。
1997年6月21日:ポルポト逮捕
1997年7月5日:フン・セン第二首相派によるクーデター。人民党の兵士がフンシンペック党の武装部隊を攻撃。この政変劇についてはここが詳しい。
1998月4月17日:ポルポト死亡報道(産経新聞)
1998月7月26日:総選挙
1998年11月30日:フン・セン首相(人民党)の新政府発足。
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ポル・ポトについては以下の方が詳しい!
■「呪縛」からの解放 現政権の責任(産経新聞寄稿)
亜細亜大学教授 友田 錫先生(日本の代表的インドシナ・ウォッチャーの一人)から産経新聞への寄稿文。ポルポトの死に際して寄せられており、ポルポトについて詳しく記してある。(著作権は産経新聞です。リンクは勝手にはっています。ありがとうございます。)
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